Tokyo Pop Culture Graffiti

2015.02.13

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episode 03
渋谷センター街チーム現象~土曜の夜のアウトサイダーたち

1983~1986年の「最初の80年代(アーリー・エイティーズ)」で、有名付属校に通う一部の男子高校生が大学生の遊びだったディスコ・パーティをサンプリングして学校単位でチームを組むようになり、自分たちのものにした経緯はepisode#01でも触れた。
そして次の1987~1991年の「バブル80’s(バブル・エイティーズ)」に入ると、高校生が最初に生み出したストリート・ファッションであるアメカジが大ブームになり、渋谷に集まる遊び慣れた少年少女たちが「アメカジチーム」として認知されたことは、episode#02で描いた通りだ。

当時はチーム名が背中に入った揃いのウインドブレイカーやスタジャンを作ることも流行った。毎週のように打たれたパーティで得た贅沢すぎるお小遣いは、洋服代と仲間や異性との遊び代に使った。スキーツアーにも手を出して儲けたりもした。
しかし、チームオーダーの服は学校のクラブ活動や仲良しグループにも広がり始め、金儲けや異性との出逢いを目的としたパーティやツアーや飲み会コンパは、大学デビュー組の軟派サークルと何ら変わらない遊びになってしまった。

結果、チームオーダーものを「ダサイ」と悟って脱ぎ始めるメジャーチームが続出。1989年頃の渋カジ全盛期に入ると、よりハードでダークなアメカジ(*1)へと彼らの装いが変化し始める。長髪化は必至だった。
西武の公園通り、東急の道玄坂といった二大資本でコントロールされていた渋谷の街だったが、高感度な彼らがメインステージとしたのはその狭間に位置する渋谷センター街だったというのは何とも皮肉だ。

チームの存在はTOKYOに出入りする高校生に認知されていただけでなく、メディアを通じて(*2)他の世代や大人たちにも知れ渡った。自然派生的にいろんな連中がセンター街チームを構成してその数も増加していく。
それまでは付属/私立高校生による学校単位色が強かったが、次第にズレ始めて他校や中学時代の地元の仲間、あるいは暴走族上がりや退学者といった喧嘩の強いメンバーが中心になっていく。つまり、東京中の不良少年たちが加入するようになってワイルドにストリート化されたのだ。年齢層も中学生~19歳までと広がった。

当然、トラブルも増える。結束力が強いチームが有名になって大きくなる。アタマと呼ばれるリーダーがいて、上下関係や筋といった不良美学や仲間意識にも拘るようになった。ファーストフード店の前が各チームの溜まり場(縄張り)となり、夜のセンター街で円陣立ちや路上に座り込む光景も珍しくなくなった。
パーティもしたしナンパもした。気の合う仲間と喋ったり悩み相談もした。「パンピー(サラリーマンなどの一般ピープル)」「オール(夜通し)、「バッド」「まったり」といった言葉も生まれた。名刺やポケベルも活用した。ゲームセンター、喫茶店、カラオケボックス、居酒屋、ラブホテルは、学校では教えてくれない知恵や人脈を学ぶ場所になった。センター街で野球やサッカーができた時代だった。

彼らの間でカルト化したアメリカ青春映画(*3)があったが、センター街チーム現象はそんなフィクションの現実化に他ならなかった。渋谷の街を劇場化したのはたぶん彼らが初めてだろう。ただ一つアメリカと違ったのは、ファッションリーダーだった彼らの装いがとても高価(*4)だったという点だ。それでもTOKYOの青春史上、チームの少年たちの見た目が最も硬派だったことに間違いはない。

とにかく89~91年頃はチーム現象のピークだった。自称チーム含めて100(*5)は超えていたと言われるが、他にレディースチームやスケーター/ダンスチームがあったり、公園通りには4WDやアメ車チーム(*6)も集っていた賑やかな時代だった。中には恐喝/狩りや傷害事件を起こしたり、ドラッグに陥ったり、タトゥーを彫ったり、暴力団と繋がるメンバーもいたが、それはどこの世界も同じだろう。

しかし、チーム=武闘派集団のイメージは拭い切れない影のようにつきまとってしまい、パー券売買の揉め事や暴走族との抗争といった新聞沙汰を経ながら、センター街に警察監視カメラの取り付けが噂されるようになると、解散するチームも増えてきた。バブル崩壊後以降は、池袋や新宿だけでなく地方都市にまで広がっていたチーム現象だが、80年代半ばの表情とはかなり異質なもの(*7)へと変わってしまっていた。

次回からは、「バブル80’s」に描かれた大学生や20代社会人による狂乱の青春について綴っていく。
( episode#04に続く)
(Text: 中野充浩)
(Photo:山之上雅信)

(*1) 渋カジのオルタナティヴな流れ。バイカー、インディアン、ウエスタンを取れ入れたスタイル。特にゴローズのインディアンジュエリーやメディスンバッグは伝説となり、ハーレー・ダビッドソンをまたがるゴローさん(高橋吾郎氏)は憧れの的だった。ちなみに伝説のバーテンダー・デニー愛川氏をはじめとする硬派なアメリカンな不良美学は、TOKYOの知的良心と表現しても過言ではない。このあたりについては、森永博志氏の著書『ドロップアウトのえらいひと』に詳しい。

(*2)週刊誌やTVなどは、一般の大学生をチームとして報道するなどの勘違いを繰り返した。チーマーという呼び方もマスコミ用語。対して、等身大の彼らの姿を追っていたのは『i-Dジャパン』『ホットドッグプレス』『ポパイ』『ポップティーン』といった雑誌だった。

(*3)『アウトサイダー』『カラーズ』『ワンダラーズ』『ウォリアーズ』『ランブルフィッシュ』『バッドボーイズ』など。なお、日本でも『真夜中の少年たち』というチームの少年を描いたビデオ映画が発売された。

(*4) 10万以上するバンソンのレザージャケットをはじめ、ショットのライダースジャケット、デニムジャケット、レッドウイングのエンジニアブーツ、トニー・ラマのウエスタンブーツ、ブーツカットやベルボトムジーンズ、レイバンのサングラス、バンダナ、バタフライのナイフなど。ヴィンテージの古着やカジュアルファッションを扱うセレクトショップ(バックドロップ、プロペラ、スラップショット、レッドウッド、キャンプス、メトロゴールド、ネペンテス、ジョンズクロージングなど知らない者はいなかった)は大人気で、ショップスタッフの着こなしや知識もリスペクトされた。

(*5)86~91年頃の有名なチームとして、ファンキース、ウィナーズ、ウォリアーズ(元祖ストリートチーム)、ヤンクス、ノーティーズ、フィクサーズ、アリゲーターズ、エンジェルス、イラプション、アップジョン、ジャンキーズ、バブルス、マムシーズ、湖池屋、渋谷変態倶楽部、AMG、宇田川警備隊などがあった(順不同)。バブル崩壊後はPBB、ブットバス、トップJなどが有名。

(*6)バンディット、デッドヒートなどが有名。マスコミは彼らを車高族と呼んでいた。

(*7)もはやストリート化という憧れを通り越してギャング化したその姿は、ポップカルチャーというよりはアンダーグラウンドカルチャーと言った方がいいのかもしれない。90年代以降に登場したカラーギャングや半グレ集団もこの流れで語られる。

中野充浩

文筆家/編集者/脚本家/プロデューサー。学生時代より小説・エッセイ・コラムなどを雑誌で執筆。出版社に勤務後、現在は企画プロデュースチーム/コンテンツファクトリーを準備中。著書に『デスペラード』(1995年)、『バブル80’sという時代』(1997年)、『うたのチカラ』(2014年)など。「TAP the POP」で音楽と映画に関するコラムも連載中。

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