狂乱のバブル・ディスコパーティの時代 -東京“パリピ”ストーリー〜リア充の変遷30年史①- PARTY PEOPLE HISTORY 1986-1991

2016.12.29

vol.14 TOKYO PARTY

s_tokyowise04_jidai01_1216 ──映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』で、劇団ひとりがその種の大学生に扮してクルーザーでパーティしていましたね。同時代の高校生はどうでしたか?

有名な付属校や私立校に通う高校生たちの間でもディスコパーティが大流行しました。放課後にたまり場的な店で情報交換したり、「麻布十番祭りで夏が終わる」感覚を持つことのできる都心在住の大人びた高校生が発端です。学校単位で“チーム”を組んで、揃いのスタジャンやウインドブレーカー、自分たちが流行らせたアメカジファッションを着て渋谷や六本木に集結。毎週末のようにパーティが開催されていました。文化祭やアルバイトでは得られない贅沢な小遣い稼ぎです。

──男子校と女子校の出逢い的な?

圧倒的に“ボーイ・ミーツ・ガール”的世界です。高校生であることを自覚して街へ繰り出すという“ハイスクール・スピリット”はこの時代に生まれたと思います。彼らの場合は同時代の大学生の動向を捉えつつも、当時量産されたアメリカ青春映画のパーティシーンからの影響も見逃せません。1989〜91年になるとこの動きが学校の枠を越えてストリート&劇場化し、“センター街チーム”“渋カジチーム”として社会現象となっていくのは、東京ポップカルチャー史上のハイライトの一つです。

──バブル期のパーティで他に何か特筆すべきものはありますか?

東京に本格的な“クラブカルチャー”が根付いたのもこの頃です。話題になったトゥーリアや金字塔的存在だった芝浦ゴールドには、幅広い世代の人々が集って宮殿ディスコとは対照的な感性で東京の夜をクリエイトしていました。クラブDJや一夜限りのパーティを神出鬼没に行うパーティオーガナイザー、高感度な外国人やLGBTといった人たちの貢献、アメリカ東海岸のヒップホップや西海岸のスケートカルチャー、イギリスやヨーロッパのレイヴカルチャーの浸透も忘れてはいけないと思います。

──90年代の西麻布イエローやゼロ年代の新木場アゲハがこの流れをアップデートしていくんですね。渋谷系や裏原にもリンクします。しかし、さすがはバブル期。スキーやビリヤードなどのブーム、レンタルビデオやカラオケボックスの普及、レースクイーンやイベントコンパニオン人気があったと思えば、その真逆を行くようなOlive少女やCUTiE少女の存在、バンドブームなどパーティネタに事欠きませんね。

とんねるず司会の恋愛バラエティ番組から発祥した“ねるとんパーティ”は集団お見合いパーティの祖となり、現在の婚活パーティへの流れを作ったことは有名です。“異業種交流会”は、イベント系サークルの“意識高い系”社会人版に他なりません。とにかくJJやCanCamなどの赤文字雑誌に出てくるようなコンサバな女子大生やOLを装っていれば、ほとんどの女子はチヤホヤされて恩恵を受けられた奇跡の時代です。

──で、高飛車になった一部の女子が男たちを「アッシー」「メッシー」とか言っちゃったワケですね。1986年から実施された男女雇用機会均等法が女を強くしたとか?

バブル期を振り返ろうとすると、そういうキーワードばかりが先行するのですべてが軽薄だと思われがちですが、実は違います。当時はスマホもSNSもないので、知り合ったばかりの相手が教えてくれるのは実家の電話番号。大抵は親が出るので、取り次いでもらうための話し方は失礼のないように緊張感が備わります。待ち合わせ一つにしても、遅刻したら相手への連絡手段がありません。マナーや時間を守ることは、どんなに浮かれていても暗黙のルールだった気がします。男女のコミュニケーションという点では今よりずっと品位はあったんじゃないでしょうか。
(次回②へ続く)

★1986〜1991年の詳しいことについては、下記で連載中。
「Tokyo Pop Culture Graffiti~TOKYOに描かれた時代と世代の物語1983-2015」


中野充浩
文筆家/編集者/脚本家/プロデューサー。学生時代より小説・エッセイ・コラムなどを雑誌で執筆。出版社に勤務後、現在は企画プロデュースチーム/コンテンツファクトリーを準備中。
著書に『デスペラード』(1995年)、『バブル80’sという時代』(1997年)、『うたのチカラ』(2014年)など。「TAP the POP」で音楽と映画に関するコラムも連載中。

(Text:TOKYOWISE編集部)
(Illustration:ハシヅメユウヤ)

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