Tokyo Pop Culture Graffiti

2015.05.07

tokyoPop
pop_vol6_3

episode#06
バブル80’sのディスコカルチャー〜普通の女の子でも遠慮なく遊べた時代

前回前々回と1987〜1991年の「バブル80’s(バブル・エイティーズ)」における若いサラリーマンやOL(episode#04)や大学生(episode#05)の動向を描いてきたが、狂乱のパーティ・デイズを繰り広げたこの史上最もリッチな青春の日々を支えていたのは、「眠れぬ夜のためのお伽噺」だった。

1987年という魔法はある夜
10代後半や20代の普通の女の子たちに
ワンレン髪と高価なボディコンドレスを与えました
そしてメルセデスやBMWの馬車で送られた先には
眩しいくらいに華やかな宮殿ディスコがありました
そこではユーロビートの大舞踏会が催されています
大理石のお立ち台に上ったシンデレラたちは
宮殿に仕える男たちに見守られながら
夢とロマンスが流れる時間の中で踊りました
それは午前零時の約束の時間(風営法)まで続いたのです


ヴィジュアル性が強いTOKYOの数ある若者風俗の中でも、「ワンレン・ボディコン」(*1)ほど存在価値のあった集団はいないだろう。それは80年代の女の主導権を二分したOLと女子大生による共有スタイルでもあり、ファッションや音楽に限らずに、言動や恋愛までをも含んだ完璧な世界観がそこにはあった。そして彼女たちが出入りした「宮殿ディスコ」は、バブル80’sが生んだ最大のポップカルチャーとなった。

1984年12月、麻布十番にインド宮殿『マハラジャ』(*2)、翌年11月は六本木に上海宮殿『エリア』(*3)がオープンする。“マハ・エリ”にはエントランスでの服装チェック(ドレスコード)、ガラス張りVIPルーム、黒服従業員、大理石のお立ち台などの豪華絢爛な内装やシステムがあり、遊びに飢えていた若い世代の左胸を刺激した。
続いて1986年4月は日比谷にエジプト宮殿『ラジオシティ』、12月は青山にヨーロッパ宮殿『キング&クイーン』がオープンして、第2次ディスコブーム(4*)が本格的に到来。そこで鳴り響いていた「ユーロビート」(*5)は夜遊びに不可欠なサウンドトラックになり、上半身だけを動かした揃いの踊り(*6)も流行った。

1987年という魔法は、空間プロデューサーを通じて芝浦の薄暗い倉庫街を湾岸ウォーターフロント(*7)として変身させたことや、六本木に宇宙船『トゥーリア』(*8)を不時着させたこともある。こうした光景と六本木や渋谷の『Jトリップバー』(*9)、西麻布などの地下クラブ(*10)の流れを汲んだ『ゴールド』(*11)が芝浦にオープンしたのは1989年11月。このハコはTOKYOクラブカルチャーの金字塔として伝説になった。

一方でディスコ空間は、クラブに比べて出逢い/社交(*12)というストーリーが強かったため、会社帰りのサラリーマンやOL、パーティ好きなイベントサークル系の大学生は宮殿ディスコを頻繁に利用するようになった。1988年12月、銀座にオペラハウス宮殿『Mカルロ』(*13)、翌年12月には赤坂に中世宮殿『ロンドクラブ』がオープンし、バブル80’s真っただ中のTOKYOの夜には「ワンレン・ボティコン」と「宮殿ディスコ」と「ユーロビート」という、3つのシンボルが誰の目にも明らかなくらい浮かび上がっていた。そう言えば、東京タワーがライトアップをして新しい光を放ったのも1989年だ。

この頃が紛れもなくディスコカルチャーの絶頂期で、暦の上で90年代に入ってからは、かつてエレガンスの代名詞だったボディコン自体がマイナーチェンジを繰り返して安価なコスチューム化を辿ったこと(*14)、ハウスやニュージャックスウィングやヒップホップといった新種のダンスビートとそれをフロアに響かせるより刺激に満ちたハコの出現(*15)が重なり、以後3つのシンボルが醸し出した空気感は街から徐々に消えて、お伽噺も閉じられていく。

そして1991年春のバブル経済の崩壊。これによって多くのナイトスポットやディスコは大きな打撃を受ける。延々と続けられると思われていたパーティがお開きになったのだ。若い世代は一気に退散ムードに覆われ、TOKYOの夜に以前のような活気を望めなくなってしまう。
しかしそんな時、奇しくもこれまでにない規模の大箱ディスコが芝浦にオープンする。人々はバブルの二日酔いのような状態で、この『ジュリアナ東京』へと引き寄せられていくことになる。
(episode#07に続く)

(付録) ”シンデレラ気分になれるサウンドトラック〜バブル80’sユーロビート超厳選20曲〜”は、記事下部へ (Text: 中野充浩)

(*1)ワンレン・ボディコン
episode#04で詳しく解説。

(*2)マハラジャ
NOVA21が手掛けた宮殿ディスコブームの先駆け。1982年8月、大阪・ミナミに最初の『マハラジャ』がオープン。麻布十番店で東京にも出現。服装チェック、ガラス張りVIPルーム、黒服従業員、お立ち台、充実したフードなどの光景で話題に。近隣の『マハラジャ・イースト』『マハラジャ・ウエスト』のほか、青山『キング&クイーン』や舞浜『エデンロック』も同グループによるもの。東京地区の代表・成田勝氏は1986年に歌手としてもデビューして、ユーロビートの名曲『イントゥ・ザ・ナイト』をカバーしてヒットさせた。「金マハ」という言葉も生み、金曜夜の盛り上がりは伝説化。それを支えたイベント系サークルの大学生は土日の午後帯を貸し切ってパーティを連発。割引が効くカレッジカードも配布されてステイタスになった。

(*3)エリア
日拓が自社ビル内で『シパンゴ』と同時にオープンさせた。天井まで7mもあって話題に。赤坂『ロンドクラブ』も同グループが経営。

(*4)第2次ディスコブーム
1970年代後半〜1980年代前半に第1次ブーム/サーファーディスコブームがあった。その後の低迷を経て、1985年より宮殿ディスコブームが到来。

(*5)ユーロビート
前身は「ハイエナジー」と呼ばれた。1986年をユーロビート元年とする説が強い。アルファ・レコードが同年10月より『ザッツ・ユーロビート』シリーズのリリースを開始。イタリア系はアップ、ドイツ系は哀愁、UK系はポップなど国ごとの個性が光った。特にUKのプロデュースチームSAW(ストック・エイトケン・ウォーターマン)とイタリアのFCF(ファリーナ・クリヴェレンテ・ファンディンガー)の楽曲がことごとくダンスフロアでヒットした。
なお、日本でもハイエナジー/ユーロ人気は飛び火して、1985年の荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」、1986年の長山洋子「ヴィーナス」、1987年のベイブ「ギブ・ミー・アップ」、1988年のウインク「愛が止まらない」などはカラオケシーンでもマストに。

(*6)上半身だけの揃いの踊り
後に「パラパラ」と呼ばれることになる踊り。黒服芸の一つで主に常連女性客らを巻き込んでの現象になった。店ごとに振り付けが異なるので、踊りによって遊び場が分かった。上半身だけを動かすのは、お立ち台だとフロアのように広いスペースが取れないから。90年代以降は第二次、第三次パラパラブームが起こった。宮殿ディスコのダンスフロアではホイッスル、掛け声、サイレン音なども鳴り響いた。

(*7)湾岸ウォーターフロント
その始まりは1986年12月にライブハウスとレストランバーを融合させた『インクスティック芝浦』と『タンゴ』で、3年期間限定営業というプレミア感だった。店作りのストーリーやコンセプトをまとめる仕事が空間プロデューサーで、西麻布の『レッドシューズ』でカフェバーブームを牽引した松井雅美氏が手掛けた。芝浦には『O’BAR 2218』もあった。また、88年には『MZA有明』が山本コテツ氏の空間プロデュースでオープン。こちらはライブハウスやディスコやレストランなどの複合空間だった。89年には汐留に『サイカ』もオープンした。

(*8)トゥーリア
1987年6月にオープン。地球に不時着した宇宙船という設定で、映画『ブレードランナー』や『エイリアン2』のシド・ミード氏がデザインを手掛けた。経営はF1スポンサーで有名になったレイトンハウス。近未来観満載の内装やオブジェ、最新の音響照明、徹底的な入場規制(エントランスでモニターチェックされてサラリーマンなどスクエアな人種は拒否された)、マスコミ公表はしないオープン方式などで、高感度な遊び人たちを刺激。クラブピープル、ファッションピープルをはじめ、アメカジ、ワンレン・ボティコン、ゲイ、外国人などカオスな客層で文化交流の場にもなった。当時、宮殿ディスコでも月8000万の売り上げが限界の中、ここは1億円を超えていたと言われる。88年1月に照明装置落下で死者を出しクローズ。この事故と同年の昭和天皇の容態悪化による自粛の影響で、狂乱のディスコブームは落ち着いた。余談だがエイリアンと言えば、目黒トンネル脇に『ギーガー・バー』もあった。

(*9)Jトリップバー
溜池の『マダムJ』をルーツに1986年5月に六本木、1987年6月に渋谷にオープン。ハウスのゴッドファーザー、フランキー・ナックルズやNYの伝説的クラブ『パラダイス・ガレージ』のDJラリー・レヴァンもプレイした。デザインは日比野克彦氏、DJはDr.Koyama氏。1988年冬には苗場スキー場にも作られた。渋谷店には当然チームの連中も出入りしていた。

(*10)地下クラブ
西麻布の『Pピカソ』『トゥールズバー』、原宿『クラブD』、新宿『第三倉庫』、青山『ミックス』、東麻布『エンドマックス』、渋谷『ケイブ』などのこと。80年代半ば〜後半はTOKYOクラブカルチャーの始まりでもあった。別エピソードで触れたい。

(*11)ゴールド
世界に通用するTOKYO発のクラブの完成形。7階建ての倉庫を改造。1階はエントランスとギャラリースペース。2階はヒップホップ、レアグルーヴ、レゲエ、アシッドジャズなどのフロア。吹き抜けの3〜4階がメインフロアでハウスが鳴り響いた。ヴォーギングやドラッグクイーンが映えた場所。5階はバー『LOVE&SEX』で、伝説のバーテンダーであるデニー愛川氏がいた。6階は会員制クラブ「YOSHIWARA」、7階はキックボクシング観戦ができた「URASHIMA」。出入りする客層も『トゥーリア』以上にカオス状態で文化交流の場としても機能し、数々のイベント/パーティが行われてTOKYOの夜で伝説化した。

(*12)出逢い/社交
ナンパのこと。当時はスマホも携帯電話もなかったので、電話番号はディスコグッズにメモることが多かった。ドリンクチケット、コースター、マッチが活躍。ちなみに家の電話なので、教える方(女)はそれなりの覚悟が必要だったし、かける方(男)も一人暮らし以外は親が出るかもしれないのでそれなりの緊張と礼儀を身につけていた。VIPルームはバブル景気を享受した紳士たちの指定席となり、ワンレン・ボティコン娘たちを招き入れてドンペリで乾杯した。

(*13)Mカルロ
『ラジオシティ』や『キング&クイーン』と並ぶ社会人向け宮殿ディスコ。水曜のオールディーズ・ナイトはディスコクラシックの嵐で人気が高かった。

(*14)安価なコスチューム化
コンサバなOLや女子大生が通勤通学服として着ることはなくなり、ブラック系、サーファー系、キャバクラ系など夜遊びや水商売専用のコスチュームとして二次展開。後のジュリアナでより過激化していく。

(*15)新しい刺激
1989年、六本木のスクエアビル10階に『サーカス』がオープン。ニュージャックスウィングやヒップホップのブームとともに『ドゥルーピー・ドゥルワーズ』などのブラック系クラブが続々と現れた。ボビ男(ボビー・ブラウン風)・ハマ男(MCハマー風)も流行。ダンスバトル番組『DADA』からは、ZOOが最初のクラブスターとして全国区の人気を得た。また、1990年にはマドンナやカイリー・ミノーグがハウスを取り入れた新曲をリリースしてダンスフロアの表情を変えた。

(付録)
シンデレラ気分になれるサウンドトラック〜バブル80’sユーロビート超厳選20曲〜

(UK)
○ デッド・オア・アライヴ「You Spin Me Round」
○ サマンサ・フォックス「Nothing’s Gonna Stop Me Now」
○ カイリー・ミノーグ「Never Too Late」
○ バナナラマ「I Heard a Rumour」
○ リック・アストリー「Never Gonna Give You Up」
○ シニータ「Toy Boy」
○ ペット・ショップ・ボーイズ「Always on My Mind」
○ アンジー・ゴールド「Eat You Up」*荻野目洋子がカバー
○ サマンサ・ジルズ「Hold Me」

(イタリア)
○ マイケル・フォーチュナティ「Give Me Up」*ベイブがカバー
○ メラ「Help Me」
○ スーパーラブ「How Deep is Your Love」
○ クー・クー「Upside Down」
○ キング・コング&ザ・ジャングル・ガールズ「Boom Boom Dollar」
○ アルファタウン「Japan Japan」
○ ポール・レカキス「Boom Boom」
○ アレフ「Fly to Me」
○ グリーン・オリーヴス「Jive into the Night」*ウインクがカバー

(ドイツ)
○ レディ・リリィ「Get Out of My Life」*早見優がカバー
○ パティ・ライアン「You’re My Love,You’re My Life」*長山洋子がカバー

TOKYOWISE SOCIAL TOKYOWISE SOCIAL