“お岩さんの祟り”から大名屋敷、東京最大のスラムまで 謎めく街「四谷」を紐解く Secret of YOTSUYA

2017.06.05

Vol.18 中央線快速物語
“お岩さんの祟り”から大名屋敷、東京最大のスラムまで 謎めく街「四谷」を紐解く Secret of YOTSUYA

東西でまったく異なる二つの歴史


TOKYOWISE編集部員が、駅から駅へとバトンをつなぎ、中央線の各快速停車駅を愛でるべく、深掘り取材する<中央線快速物語>。今回の停車駅は、四谷だ。四谷と聞いて、パッと思い浮かぶのは、やはりお岩さんの「東海道四谷怪談」がダントツではないだろうか。(これについては後述したい)今回の取材に行く前の筆者を含めて、周りの地方出身者に聞いてみたところ、「それ以外、四谷って、何があるところだったっけ?」―思い出せない、あるいは、この街についてよく知らないという人がほとんどだった。むろん、四谷生まれ&四谷育ちの人なら、即答してくれただろうけれど。

まずは、地理と交通の面からこの街を紐解いていこう。地名は“四谷”なのに、駅名は“四ツ谷”。地名と駅名の表記が異なるかと思えば、同じ交通機関であるバス停は、「ツ」の入らない四谷になっている。これも数ある四谷の謎のひとつだが、(諸説はあるが、はっきりした理由は分かっていない)お堀を走る景観が見える中央線の上を地下鉄の丸ノ内線が走るという駅舎の造りも、これまた不思議である。

駅舍は東側が千代田区、西側が新宿区になっていて、この二つのエリアで歴史的背景は大きく異なる。千代田区側は、紀州・尾張・井伊の御三家の屋敷があった大名屋敷エリアで、それぞれの頭文字を取って、紀尾井町と呼ばれている。紀州家の上屋敷跡には、かつてのグランドプリンスホテル赤坂があり、尾張家の中屋敷跡には、上智大学や聖イグナチオ教会、井伊家中屋敷跡地には、ホテルニューオータニが建ち、今も独特の優雅さを保っている。

迎賓館の正門
迎賓館の正門。西門側には、道路を隔てたところにスラム街だった南元町公園がある。

今は跡形もなくなった東京最大のスラム街


対して、新宿区エリア(正確には新宿区と港区の境目にあたるエリアも含む)には、赤坂御所と迎賓館が建ち、明治時代の皇室中心の政治的背景を持つ一方、「鮫河橋(さめがはし)」という東京最大の大貧民窟(スラム街)があったという歴史的暗部も抱えている。最盛期には、わずか100平方メートルほどの湿地帯の谷底に建つ1370戸の細民長屋で、5000人もの貧民が暮らしたといわれ、江戸時代には非合法の私娼屋が集まる「岡場所」という遊郭があった夜鷹の街だ。

スラム街の一部だったとされる「南元町公園」に行ってみたところ、幼い子供たちが遊ぶ普通の公園だった。そこには、地域の歴史を紹介した「江戸名所図絵」なる看板があったが、スラム街の存在については一切触れられておらず、モニュメントが建つのみ。

「鮫河橋 地名発祥之所」の石碑
せきとめ稲荷に建つ「鮫河橋 地名発祥之所」の石碑

他に、何か痕跡があるかもしれないと歩き回ってみたが、南元町公園のすぐ裏にある「せきとめ稲荷」という小さな神社と、四谷の総鎮守「須賀神社」に、鮫河橋の地名を記す石碑があるのみで、当時の様子が分かるものは消されてしまったのか、もうほとんど残っておらず、静かな住宅街となっていた。

四谷も三丁目まで行くと、今も賑わう荒木町などの旧花街があったりと、四ツ谷駅周辺には、とてつもなく複雑な歴史的背景があった。それなのに、その記憶を封印するようになったのはなぜ?そこにはきっと、そうせざるを得ない複雑な事情が、こんがらがった糸のようにどこかで絡み合ったまま、この地に眠っているのかもしれない。

NEXT>“お岩さん”本当の姿とは!?

TOKYOWISE SOCIAL TOKYOWISE SOCIAL