“お岩さんの祟り”から大名屋敷、東京最大のスラムまで 謎めく街「四谷」を紐解く Secret of YOTSUYA

2017.06.05

Vol.18 中央線快速物語

素顔が見えないカメレオンタウンに伝わる
“祟り”伝説


歴史からして謎めいた四谷には、色んなものが混在している。皇室、徳川家、スラム街。はたまた、お坊ちゃま&お嬢様の集積地である学習院や雙葉学園があり、かつては陸軍士官学校もあった。上智大学や聖イグナチオ教会と共に、キリスト教の書籍や聖品を扱うドン・ボスコ社が建つ、カトリックのムード漂う街でもあり、もはやごった煮状態。一体全体、この街の素顔は何なんだ?そんな捉えどころのなさに輪をかけるのが、「東海道四谷怪談」のお岩さんにまつわる“祟り”の話だ。

「鮫河橋 地名発祥之所」の石碑
“お岩稲荷”として今も親しまれる「田宮於岩稲荷田宮神社」

東海道四谷怪談といえば、夫に裏切られ、顔が崩れる毒を飲まされて憤死した妻(お岩さん)の怨霊が復讐を遂げる劇。四谷左門町には、お岩さんを祀った「お岩稲荷」が同じ通りに向き合うように二つ建っている。ひとつは於岩稲荷田宮神社(以下、田宮神社)、もうひとつは四谷於岩稲荷陽運寺(以下、陽運寺)。

東海道四谷怪談が世に出たことで、お岩さんは、日本の幽霊界を代表する超有名人になった。映画であれ、演劇であれ、東海道四谷怪談に出演する役者たちは、「お岩さんの墓参りをしなければ、祟られる」と言い伝えられているが、そもそもなぜ、怨霊なるものを神として祀っているのか?しかも、二ヶ所に。不思議でならなかったが、すぐに謎は解けた。

本当のお岩さんは“うらめしや~”ではなかった!?


田宮神社を訪れたところ、お岩稲荷にまつわる貴重な資料をいただいた。これによると、実在したお岩さんは、江戸時代の初期に健気な一生を送った「田宮岩」という名の女性で、家の格式は御家人であったが、薄給の夫を支えるため、商家に奉公に出たという。その時、お岩さんは、庭にあった屋敷神(お稲荷さん)を信仰したことで、家勢を再興できたと言われ、その噂が人から人に伝わり、本人の亡き後も、「お岩の稲荷」として、多くの人々に親しまれるようになったのだそう。

しかし、一方には、田宮家の成功を妬む人もいた。やれ、怨霊に苦しめられたなど、悪意に満ちたデマが人から人に伝わり、ひとり歩きしてしまった。そんな噂話を聞きつけたのか、東海道四谷怪談の作者である四代目鶴屋南北によって、田宮岩の没後200年ほどを経て、実際のお岩さんとはほど遠い、おどろおどろしい架空のキャラクターに出来上がった。そうして東海道四谷怪談は、不動の名作として今日まで受け継がれてきたのである。

また、四谷怪談は公演の休止が多く、事故が多発したのは、祟りのせいだと人々は噂したそうだが、どうだろう。怨霊という得体の知れないものだけに、証拠はどこにもないし、逆に、怨霊の立場で考えてみると、休止や事故など起こさず、自分の身に起きた残虐無道な物語をできるだけ多くの人に見せて、負の連鎖を起こすことこそ、本当の祟りではないだろうか。今も語られる祟りの伝説は、確証のない噂話を好む人たちが作り出した迷信が肥大化したもの。筆者はそう思う。

現在、田宮神社の宮司を務める第11代当主の田宮均さんに話を伺ったところ、生活用水を汲むためにお岩さんが使っていた井戸が、神社の奥、田宮家の庭に今もあった。(例外を除き、一般公開はされていない)江戸時代に掘られたもので、深さは12-13メートルほど。このエリアに唯一残る、当時の貴重な井戸である。

とにかく、四谷は素顔の見えない街だ。都心をぐるりと囲んで走る山手線から見れば、東京の“ヘソ”の位置にありながら、今、歴史を忘れるかのように、ヘソのない街になっている。15分もあれば、自転車で行ける距離に筆者は暮らしているが、年に一度の確定申告以外でこの街に来ることは滅多にない。おそらく、ほとんどの人にとって、よほど大切な用があるとか、仕事先や学校がない限り、乗り換え以外で下車することはないのでは?街自体も流しの人にまったく向かっていない風情だし、ちょっと特殊な街だ。それこそが、四谷を四谷たらしめる個性なのかもしれないけれど。

(Text&Photo:岸 由利子

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